20110903 気仙沼大谷での支援活動打ち合わせ

JUGEMテーマ:学問・学校

 現在の気仙沼市は、2006年に唐桑町と合併、2009年には本吉町が編入されできあがったものである。従って、気仙沼と一口にいっても、地域の文化や住民の気性にも大きな違いがある。
我々が偶然知り合い、支援を開始した大谷は、旧本吉町に属する地域で、さらに大谷は平磯と岩尻に別れる。平磯と岩尻は川を一本隔てただけなのだが、その結果浜が異なることから全く別のコミュニティとなっている。
元々のアイデアは、平磯の共同体が管理する里山に、比較的大きな土地があるので、復興住宅が作れないか? というものだった。宮城の木材を使い、健康で安全な材料と工法で、エネルギーや食料的にもできる範囲で自給できるエコ・ビレッジを復興住宅として作れればと期待していた。
当初は、仮設住宅が間に合わないのではないかという思いで、かなり焦って企画を立てていたのだが、土地の確保の問題や事業リスクの問題など、簡単には解決できない問題もあり、手こずっていたのだが、そうこうしているうちに8月となり、仮設住宅の整備がほぼ予定通り(予想外に)進み(一般の賃貸住宅を仮設住宅と見なす政策も効いた)、緊急に復興住宅を作るという需要が基本的にはなくなってしまった。一度仮設に入ると、いろいろ問題はあるがそこでコミュニティが生まれる。そこからあえて急いで離れるというのはなかなか困難なのだ。避難施設でも、パーティションを提供しようとしたら、オープンな空間で既に関係性が出来上がっているので不要と断られた例も多い。
 また、現地では修理需要が多く、新築には手が回らないのが現状で、地元の雇用のためにもという意味からしても、支援企画の大幅変更が必要になってきた。そういうことで、もう一度現地のニーズを確認し、現地で活動し、協働できそうな団体と意見交換し、企画を見直そうということで、急遽一泊の予定で気仙沼に出かけた。
 我々(ここでいう我々とは、JSTのプロジェクトで共同研究しているメンバーの一部)の企画のミソは、単に「住まい」を再建するのではなく、これからの「暮らし」を共に考え、同時にそれを支える生業も考えようというものだ。例えば所得が6割になっても、食料がほぼ自給できれば10%、エネルギーも自給できればさらに5%、残りを林業の再生や自然環境の再生、あるいは都会との交流、地域の中での手伝い仕事のようなものを組み合わせれば、収入が100あったときと同じ生活レベルになれるのでないか、むしろ積極的にそういう生き方に転換した方が幸せではないか、そういう「暮らし」と「生業」を同時に再建するような支援はできないかというものである。
 今回の打ち合わせは、たまたま平磯にあるお寺、清涼院の境内を借りて支援活動を行っているシャンティ国際ボランティア会との意見交換がメイン。シャンティは曹洞宗の坊さんが中心になって作った国際ボランティア団体だが、東日本大震災でも支援部隊を送っている。坊さんも頑張っているのである(スタッフの多くは一般の方ですが)。打ち合わせでは、方向性は同じであることを確認し、今後どうするか意見交換。有益なアイデアはでるが、これをマネジメントできるコアを確定できないところが現在の問題か。
 打ち合わせ後、仲間の小野寺さん宅でさらに意見交換と懇親会、痛飲・・・・。
 小野寺さんは自宅にいるときに津波で被災、間一髪難を逃れた。仮設住宅には入らず、自宅の前の通りの向かい側で被害の程度が少なかった民家を見なし仮設として借りている。借りたばかりで風呂は動かないし冷蔵庫もない。しかしまあ、仲間がいれば何とかなるもんだという。修理したとはいえ、家の中を津波が流れ、その高さは部屋の中で1.5m程に達したという民家である。天井を見ると、雨漏りなのか津波の後なのか、大きなシミも残っていて少し気味が悪い。明治とチリの津波の時には大丈夫だった高台にあるが、海まで100mほどしかない。天井のシミを見ながら、何とも言えぬ恐怖を感じつつ就寝。僕でさえこうなのだ。地元の人の心はいかばかりか。

 さて、前回は復興の槌音が聞こえないと書いたが、今回はかなり聞こえた。ガレキの撤去が進んだのも確かだが、住宅の修理もかなり進んでいる。写真のように、海岸沿いにある加工工場も、足場を組んで復旧工事を開始している。これらの工事が果たして復旧のマスタープランに沿ったものかどうかは定かでないが(おそらくないのだが)、国や地自体がどんな理想的なプランを描こうが、現実はどんどん進んでしまっている。この港もかなり地盤沈下しているが、沈下対応と工場の復旧を今後どう整合性を取るのか。復旧は良いのだが、同時に問題の種もまかれている。こういう種を予防したり摘み取るのが政治の役割なのだが。

 もう一つ、目についたのが農作業をしている人である。この日は日曜日なのだが、多くは高齢の方が秋野菜なのだろうか、ガレキの間にできたちょっとした隙間の土を耕しているのが印象できだった。
 写真は大谷中学校の裏にある田んぼ。ここも津波に襲われ、4月はガレキが散乱していたのだが、ボランティアが撤去し、田植えに間に合った。田んぼなので、水を一週間ほどかけ流したようだがこのようにちゃんと穂をつけた。ケースバイケースであろうが。海水を被った田んぼが一律何年もダメという訳ではないのだ。

 最後の写真は、農林水産省がやった高潮対策の土嚢。この陸側は津波で被災し、さらに地盤沈下して今は無人の荒れ野となっている。この土嚢は一体何を高潮から守ろうとしているのか? もちろん国土だというのだろうが、今回地盤沈下したところを津々浦々、土盛りして保全できるとはとても思えない。重点的に土盛りして保全するところ、後はままに任せて自然に戻すところと、早急に仕分けして、お金を節約すべきでは無いか。むしろ積極的に美しい干潟にするようなことも考えるべきだと思う。生態系の回復、ひいては漁業資源の涵養にも寄与すると思う。こういう自然生態系に戻すという作業は、都会からも金や人を持ってきやすいプロジェクトになると思うのだが。
また、何より景観として醜悪だ。